TOP > about "Q-sai" > 主宰・きりばやしひろきからのメッセージ
きりばやしひろき
http://dashman.org/
年明け1月は東南アジアに居ります。滞在地は、スラム。
これのみで全行程が埋まっているため、輝く珊瑚礁の島々も涙を拭って素通りです。
スラムに“縁”のない人は「危険だから行くな」と言い、縁のある人は「人々があたたかい」と言います。
私は後者の立場ですが、とりわけスラムの人々は貧困をよそにとても明るく、他者への誹謗や中傷、自身の境遇への愚痴や不満、裕福層への妬み嫉みなどを私は聞いたことがありません。
世界中で右傾化が進み、違いを乗り越えられず毎秒殺し合うこの時代、彼らからは学ぶべき何かがあるような気がしています。
念のためですが、どの国に限らず外国人客(=渡航できる経済下にある人々)の無闇なスラム潜入は危険なので、くれぐれもここで得た程度の知識を持って行動を起こさぬよう。
今回の滞在地は、雨宿り程度の住居が港周辺に密集した極貧地区、雨季になると洪水で海岸と陸との境目が無くなります。
政府管轄のインフラがないので停電は日常茶飯事、スラム内部にも格差があって浄化された飲み水はごく一部の世帯だけのもの。
多くの人はゴミを拾って売るのが仕事でとても貧しく、あわよくばニンニクの皮むきなどの内職をGETできたとしても賃金は国内最低水準以下。
この地を捨て、他所の町で新しい人生を始めようとしても、スラム出身というだけで職には有り付けず。
子供たちは学校どころか文房具さえ買えず、ご飯を毎日食べられないケースも多い。
港っ子は魚釣りが大好き…だが水質及び土壌汚染で万年キャッチアンドリリース…であるべきなのに空腹に勝てない人は生きるために食べ、今日明日の飢えに直面していない人はタダ同然の値段で販売し、またそれを選択肢のない貧困層が買う。
医療体制は無いに等しく、とくに乳幼児の死亡率は日本の数十倍にも上る…。
…このように、一部外者ごときの支援で解決できるほどスラム事情は甘くない訳です。
たまたま4年前、この地を訪れた際に意気投合し、以降ずっと連絡を取り合ってきたスラム住人たちから「ロックダウンを機に機能不全に陥ってしまったプロジェクトを助けてほしい」と頼まれ、一度二度断わったものの説得を諦めない彼らの熱意に負けてここに至っただけの話で、今回の目的はいわゆるスラム支援活動ではありません。
「スラム全体の問題を何とかしてくれ」と言われたら途方に暮れることしかできませんが、辛うじて数名程度のプロジェクトを助けることぐらいはできるかもという計算と、その活動が結果スラムの助けになる可能性を秘めているのとで、今まさに未知数に挑んでいるところであります。
…「あれ?ここQ-saiのホームページじゃないの?」「スラム?なぜ?」と思った人もいるでしょう。
「なぜ?」ついでに、もうひとつ。
これまでQ-saiが「教えるのが目的ではない」とたびたび言及してきましたが、私の説明が悪いのか、この意味が未だによくわからないという人が多いのです。
ただ、昨今たまたま時代が大きく動いたことで、この意図がだいぶ伝わりやすくなりました。
旧来の教材、レッスン等々が担ってきた役割は、近年はほぼほぼYouTube動画かBlogがカバーできてしまいます。
事実、レッスンを生業とする人々にとっては八方塞がりの時代なようで、その方面の業界は縮小傾向。
ただ、そもそもの話、手段を生業にするから八方が塞がる訳ですよね。手段は手段、世の中が変われば目的のために変化するのは当然のこと。
Q-saiは「ある目的」を果たすためのひとつの手段として「指導」という手駒をポケットに忍ばせているに過ぎず、むしろやり易い時代が来たぞと喜んでいる側にいます。
必要な資料映像に誰もが瞬時にアクセスできる2024年という時代に、「情報」の他に、ビギナーのモチベーションを強化し、且つビギナーが手に入れ辛いものといえば何?
Q-saiはブレることなく発足当時からずっと「それ」に取り組み続けていますよ。
正解は「体験」であります。
とくにビギナーにとってアンサンブルは以前よりも価値の高いもの(=希少な機会)へと成り変わりました。
・他者と共に楽曲を演奏(=合奏)すること
・誰でも立てる舞台があること
この2つが、Q-saiが意とする「体験」にあたります。
楽器を弾く人の8割はアンサンブルを経験したことがない、という残念なデータがあります。
普段聴く音楽はアンサンブル曲ばかりなのに、変だなと思いませんか。
また「人前での演奏経験」に至っては、全楽器経験者の更にごく一握り。
たとえばアコースティックギターのボディに空いてる丸い大きな穴、あれは目の前の聞き手に良い音色が届くよう、あの位置なんですよね。
聞き手あっての楽器なのに可哀想。いえ、楽器だけでなく、持ち主もですよ。
ちなみに管楽器の中にはベル(=ラッパ部分)が必ずしも前方を向いていないものがありますが、揚げ足を取られぬよう補足しますね。
あれは音響設計の行き届いた会場舞台全体をひとつの楽器(=共鳴体)として見立てており、ベルが床に向いているオーボエやクラリネット、後方に向いているフレンチホルン、天井を向いているチューバやユーフォニウムなどがいて、全体でひとつの立体的なアンサンブルになる訳で、どんな音楽もリスナーファーストで設計されていることをよく理解しておいてください。
とにかく、根本の機能が活かされていない楽器が世界中ではほとんどだということです。
スラムの”縁”のくだりと同様、楽器とは、リスナーや共演者あっての「あたたかい」だと思いませんか。
近年のDX化で、今や誰でも手に入る「情報」にQ-saiがお節介を焼く必要性が弱化した分、「体験」に注力しやすくなりました。
外からは見えなかった本来の楽器の面白さに「体験」を通じてようやく気づくことができる、これが発足以来変わらぬQ-saiの視点です。
合宿の受け皿「宇野振道場」も、そこそこ上達すればレッスンに縛られる必要はなく、稽古生が自由にその時間をデザインでき、ある人は道場主とジャムったり、ある人は作曲編曲にチャレンジしたり、ある人はリモートでギター片手に晩酌しつつ音楽談義を楽しんだり、ある人はバンド編成(=セッション稽古、私も加勢しています)に挑んだり…と、皆が求めているものが情報インプットとは限らないことを現場で示し続けています。(※宇野振道場はあくまで合宿の受け皿として用意された機会であるため、過去に合宿に参加された方々のみに門を開いています。非該当の方々ごめんなさい)
「教えるのが目的ではない」の意味、理解できましたか。
長く関わっている各企業関連コンテンツでも近年は概ね「脱レッスン」化を進めていますし、毎年恒例「TOKYOハンドクラフトギターフェス」も今年は講義でなく「誰でも立てる舞台」を設け、私は「世界一ビギナーに優しいMC」に徹する予定ですし(合宿最終日の余興あるいは感謝祭の簡易版のような楽しい場になると思います)、2024年はまさにその過渡期と言えます。
もちろんホームの河口湖開催も、再開の折には誰しもに開かれた「体験」の場であり続けます。
こんな調子でQ-saiはフレキシブルに発想を変え、手法を変え、形を変えながら、引き続き楽器人口増に励んでまいります。
フレキシブル過ぎて、スラムに居ります。
2024年 1月 1日 きりばやしひろき